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特集

終戦特集2008年

反核平和を訴える元教師

藤沢宏至さん

市民に向けてチラシ「6・9通信」を配る藤沢宏至さん=龍ケ崎市佐貫のJR佐貫駅前

 8月6日のJR佐貫駅前。藤沢宏至さん(81)は、炎天下の中で「核兵器廃絶」の署名運動をしている原水爆禁止竜ケ崎協議会(竜ケ崎原水協)の仲間たちとともに「世界至宝 憲法九条」のTシャツを着て、孫世代の記者とひ孫世代の支援者の子どもの前で「6・9通信」を懸命に市民たちに手渡していた。

 藤沢さんは中学、高校教師の頃から現在に至るまで、龍ケ崎市で核兵器廃絶を訴える運動をし、毎月6日と9日には駅前でチラシ配布と署名活動を行っている。きっかけは「学校の教員になって、組合運動の中で変わっていった」のが始まり。「まじめな先生が多かった」ことで「いいかげんな人生から変わっていった」と心境を語る。

 少年時代は、日立市の多賀工業専門学校で工業関係の勉強をしていた。藤沢さんは文系志望だったが、当時の担任から、理系の学生には徴兵延期の制度があったので「理系に行かないと、戦地にすぐ送りだされる」との強い勧めで進学。後に同い年の小説家が活躍するのを見て、「かえって文系に行った人が学業を続けられた」と後悔する一方で、同年には徴兵検査の対象年齢を19歳に繰り上げて実施しており「もし(戦争が)続いていたら、戦地に送られたかもしれない」と振り返る。

 45年7月17日午後10時頃、日立や勝田(現ひたちなか市)で連合軍の艦砲射撃が行われた。当時は日立製作所の寮にいたが、学校の寮にいた後輩13人を含む計15人が死亡。「寮がやられた」と聞き、寮に向かった。ちょうど雨が降っていたが、連合軍の艦砲射撃からは逃げようが無かった。寮だけでなく校長の官舎も砲弾が直撃し、校長と校長の妹も死亡した。「日立製作所の寮に移ったので助かった」と九死に一生を得た。残っていた藤沢さんは、戦火の中で亡くなった、ウジのわいた遺体を火葬した。

 最後は勝てると思ったが、飛行機を作るどころではなく、日立製作所も壊滅状態で「これじゃどうしようもない」と、この国の将来を憂い「それよりは戦地に行くのが本当だろう」と純粋に思い、親に内緒で同年に陸軍特別甲種幹部の試験を受けて志願した。合格通知を終戦直前に受け取り、8月15日に列車で自宅に向かった。途中で勝田や水戸で米軍機の姿を見かけたが、土浦で停車した時に、軍の将校がうなだれていた。その時点で終戦の詔勅が出されていたが、自宅に到着して母親から初めて終戦を知らされた。

 終戦後は学校に在籍こそしていたが、「マージャンや食べ物をもらった記憶しかない」生活を経て、特許庁の技官として勤務。当時の給料が1カ月360円だったが、靴一足が700円の超インフレ。後に中学校の教師となり、当時の龍ケ崎中学校での約10年の勤務を経て高校教師へ。58年発足の竜ケ崎原水協の活動に参加し、71年に最初の「6・9ニュース(現在の6・9通信)」を発行。反核平和を訴えて今年で37年目を迎えた。「仲間がいたから今でもがんばっている」と藤沢さん。今の若い世代で失われつつある「合い言葉は『連帯』」を実践している(崎山勝功)

(2008年8月10日付「常陽新聞」1面掲載。日付、肩書きなどは掲載当時のまま。)