
牛久入管に収容体験者の声
人間らしい扱いと医療の充実を求める
市民団体が難民支援へ活動

東日本入国管理センター(牛久入管)正面入口=牛久市久野町(2007年6月6日撮影)
牛久市久野町にある「東日本入国管理センター」(通称・牛久入管)には外国人がおよそ数百人(収容定員700人)収容されているが、その中には外国での迫害を逃れて日本に難民申請した外国人も少なからず含まれている。
牛久入管に収容されている難民を支援する市民団体「牛久入管収容所問題を考える会」(通称・牛久の会、田中喜美子代表)では、会員たちが1995年から同所に収容されている難民たちとの面会活動を毎週行っている。
12月6日にはつくば市のアルスホールで08年活動報告会が行われ、仮放免された難民申請者、難民ビザを取得した外国人と支援者たちが集まって、牛久入管の現状について語った。牛久入管で何が行われているのか?以前収容されていた難民たちの声を聞いた。(崎山勝功)
「私たちは人間だ!動物じゃない!」

ミャンマー(ビルマ)の人たちによる踊り=つくば市吾妻2丁目のアルスホール
「私たちは人間だ!動物じゃない!」牛久入管にかつて収容されていたミャンマー人男性が叫んだ。この男性は入管職員に外部への電話をかけることを拒否されるなど、様々な不当な扱いを受けたという。収容されている難民の多くは一日中管理・監視され、長期拘束によるストレスの増大やそれに伴う様々な発病もあるという。
同じく収容されていたイラン人男性は「収容所というより刑務所。東京拘置所と変わりがない」「我々のことを人間と思っていない」と難民処遇に対する不満の声を上げた。牛久入管では難民申請者と一緒に、在留ビザが切れて超過滞在で身柄拘束された外国人が収容され、このため「難民申請者と犯罪者を一緒にしている」と不満の声が上がっている。
またトルコ国籍のクルド人男性は「死刑囚と変わりない」「『そこまでひどい人間なの』と追い詰められ、精神状態がおかしくなった。拘置所のほうがまだいい」と、長期間の拘束によるストレスを訴えた。「『一時的に保護』と言っているが、『刑務所』ですか?『保護』ですか?」と所内での難民待遇を批判した。
牛久入管によると、同所に収容されているのは「退去強制令書」を発布された、国外を強制退去される外国人だが、中には難民申請者も含まれるという。
医療体制に批判が集中
とりわけ難民たちの間からは、牛久入管の医療体制に対しての批判が集まった。牛久入管では常駐の医師が1人いるが、「具合が悪くなっても病院に連れていかない」「歯の治療ミスが行われた」「肝臓が悪い別の収容者に胃薬を渡した」「まともな治療がされない」との不適切な治療に対する怒りの声が上がった。他の出席者からも「牛久入管から出された後、病気がひどくなって死亡する例もある」と語り、収容されている外国人の間では「病気になるな、ケガをするな」が合言葉になっている。
牛久入管によると、常駐の医師は1人で内科を担当しているが、「専門的な治療が必要な場合は外部の病院に連れていく」「週1回歯科医が来て、場合によっては外部の病院に連れていくこともある」とコメントしている。
どう転んでも難民としてはダメ?
外国人問題に取り組んでいる大川秀史弁護士によると、難民申請している外国人の場合、他人名義や偽造パスポートで来日する例と、正規のパスポートで来日する例がある。外国で政治的理由などで迫害されている場合(北朝鮮やミャンマーなどの独裁国家)では、正規ルートでの出国は望めずに法を犯して出国する場合がある。そのため日本で難民申請しても、日本に着いた時点で身柄を拘束されるという。また苦心して正規パスポートを取得して来日しても「パスポートが取れるのだから、政治的に迫害されていない」と見なされ、難民申請しても聞き入れられずに身柄を拘束される。
2007年度の入国管理局統計によると、難民申請数は816人、そのうち難民認定されたのは41人。不認定数は446人にものぼり、そのうち人道配慮による在留は88人だが、多くの難民が「難民」として認めてもらえない現状がある。
難民支援に向けての取り組み
同会では収容されている難民申請者に対して、様々な支援活動を行っている。そのうちのひとつに難民の仮放免支援がある。
収容されている難民申請者が仮放免されるには、保証金と保証人が必要になる。だが、保証金は1人当たり300万円にもなる場合があり、保証金と保証人がそろっても必ず許可が下りるとは限らず、最低でも半年から1年近くかかる。幸い仮放免になっても原則として就労は禁止、移動も制限されるなど厳しい条件が課せられる。それでも仮放免を望む難民は多い。
現在同会では難民の支援者を募集している。問い合わせ先は牛久の会、田中さん(電話029・847・5338、ファクス029・847・3495)まで。
(2008年12月14日付「常陽新聞」1面掲載。日付、肩書きなどは掲載当時のまま。)