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特集

終戦特集2009年

幼少時の戦時体験から平和運動に参加

「戦争をしてはいけない」という思い

石川アヤさん

「原水爆禁止」の署名活動をする石川アヤさん(70)=龍ケ崎市佐貫のJR佐貫駅東口前

 「上空が飛行機の航路になっていて、毎日飛行機が東から飛んできて、西の山に消えていった」と、鹿児島県・大隅半島最南端の村で過ごした当時を振り返る。当時鹿児島県内には、神風特攻隊の出撃基地として使用していた鹿屋飛行場や知覧飛行場があり、四国地方の飛行場から出撃する戦闘機の航路にもなっていたのでは、と思う。「夕日の中に飛行機が西の山に消えていった」光景が今でも鮮明に残っている。

 小学校に入学した当時は、集落ごとに上級生が下級生を集めての集団登下校が行われており、松林にあった縦1㍍、幅1㍍の防空壕を利用して登下校していた。場所が鹿屋飛行場に近いこともあり、米軍機がよく飛んできた。米軍機が飛来するたびに空襲警報が鳴り、自宅裏の畑のケヤキの根元にある防空壕に避難するのだが、「体がギューっと固くなって、歯がガチガチ鳴るような怖さが押し寄せてくる」感触を現在でも覚えている。

 ある日、5年生の兄と4年生の兄の3人で登校中、急にサイレンが鳴り5年生の兄に引かれて自宅に引き返そうとしたところ、水田に差し掛かったときに「ヒュー」と爆弾の落下音がしたため、兄は水田の中に石川さんを突き落として保護し、自分も伏せた瞬間、爆弾が炸裂。水田の中で伏せていたが、「爆風が体を持ち上げた感触を今でも覚えている」と語る。自宅に帰宅すると、自宅窓ガラスが爆風で吹き飛ばされていた。後日自宅を訪ねた祖父は「村に落とそうとした爆弾が風で流れてミカン畑の山に落ちた」と話した。

 上の兄が3人戦争に出征したが、真ん中の兄=当時(19)=はシベリアで死亡した。今から数年前に96歳になった母親が倒れて、介護のために龍ケ崎市から鹿児島県に帰省して畑の手伝いと介護をしたのだが、老衰で母が幻覚を見るようになったとき、麦わら帽子にモンペ姿の石川さんを見て、死亡した兄の名前を呼んだことがたびたびあった。シベリアで死亡した兄については、小学校6年のときに一度だけ「やさしい子で、あなたがたより勉強ができた」としか語らなかったが「母は死ぬ間際まで兄のことを忘れたことが無かった」と知った時には、妹と2人で隠れて泣いた。「あの戦争で夫や子どもを亡くした人たちは、戦争が終わっていない」と、98歳で亡くなるまで死亡した兄のことを思っていた母親の心境を代弁した。

 終戦後現在に至るまで「『小さい子どもにあの思いを絶対にさせてはいけない』という思いが離れない」「どんな理由をつけようとも戦争は許されない。殺しに行って、殺されるだけで、何も生まれない」との信念に基づき、「九条の会アピールを広める会・竜ケ崎」や原水爆禁止運動などに参加し、日本人約300万人とアジア諸国の人々約2000万人の犠牲の上に成り立った日本国憲法の大切さ、平和の尊さを市民に訴える。

 米国・オバマ大統領の、広島・長崎の原爆投下責任を認め、核の無い世界を訴えた「プラハ演説」について感激する一方、田母神俊雄・前航空幕僚長ら一部の人間が「北朝鮮の脅威」を理由に「核武装」を主張することを危惧する。また、現在の経済・社会状況を、昭和恐慌から戦争に突入した1920年代後半から30年代に重ね合わせ「70年生きてきたけど、(戦前のように)息苦しい生活」と語るが、「日本国憲法を実行したら、ほんとに豊かな、やさしい国になる。憲法を守るのは一人ひとり」と、将来の世代に希望を託している。(崎山勝功)

(2009年8月10日付「常陽新聞」1面掲載。日付、肩書きなどは掲載当時のまま。)